実在のドラキュラ

  

 ルーマニアは大きくワラキア・モルドヴァ・トランシルヴァニアの3地方に分かれ、どの地域でもルーマニア人が多数を占めている。しかしこの3つがあわさって1つの国になったのは第一次世界大戦後のことであり、それまでは、特にトランシルヴァニアのルーマニア人は長い間他民族の支配下に置かれていた。 

 本来これらの地域はダキアと呼ばれてローマ帝国の支配下に置かれ、ルーマニア人とはつまりローマの支配と言語を受け入れた先住民の後裔なのだが、3世紀後半には相次ぐ異民族の侵入によって帝国の支配が崩壊してしまった。以後の600年間は詳しい様子が分からないが、9世紀末にマジャール人が侵入してきて現在のハンガリーとトランシルヴァニアに定住した。このマジャール人が現在のハンガリー人であり、つまりトランシルヴァニアはハンガリー領となったのであった。以後、この地域のルーマニア人は数百年に渡ってハンガリー人の支配を受けることとなる。その周辺の地域もハンガリーの影響下に置かれていたが、まず1330年にワラキア公国が、1375年にモルドヴァ公国が成立して独立国家の経営に着手した。

 ワラキア・モルドヴァ両国の当面の敵はハンガリーであったが、南からもっと恐るべき敵が迫っていた。すなわちオスマン・トルコ帝国である。

   

   ヴラド・ドラクル

 14世紀後半にバルカン半島の大半を占領したオスマン帝国は1370年にはワラキアへの侵略を開始したが、対オスマン国境をドナウ河で守られたワラキアはよく防ぎ、1390年には逆にオスマン領に攻め込むことまでした。

 1394年、強豪バヤジット1世に率いられたオスマン軍がドナウ河を渡った。ワラキア軍は壊滅的な打撃をこうむり、ワラキア公ミルチァは貢納金を払って屈服した。オスマン帝国はアレクサンドル・アルデアなる人物をワラキア公として擁立したが、一般のワラキア人はこれを歓迎せず、旧主ミルチァ老公の庶子ヴラド・ドラクルを擁して反乱を起こして一旦はオスマン勢力を追い払った。ヴラド・ドラクルはハンガリー王ジギスムントの後援を受け、異教徒(主にトルコ人)と戦うキリスト教徒君主を結集した「ドラゴン騎士団」の団員にも列したが、ジギスムントが死ぬとあっさりとオスマン側に寝返った。

 1442年、オスマン軍がワラキアを通ってトランシルヴァニアに攻め込んだ。ところがハンガリー軍はオスマン軍を撃退し、逆にワラキアにまで攻め込んだことからヴラド・ドラクルもオスマン帝国への亡命を余儀なくされた。

 翌43年、オスマン軍がワラキアを回復し、ヴラド・ドラクルも母国に帰還した。オスマンには次男を人質として置いてきたのだが……彼は帰国するとただちにオスマン帝国から離脱し、当時結成されていた反オスマンの十字軍に参加した。オスマン帝国に置いてきた次男は完璧に棄てられてしまった。十字軍は一度はオスマン軍に大勝したものの44年にはヴァルナの戦いにて壊滅し、ヴラド・ドラクルとその長男も敗北の責任のなすりあいで殺されてしまったのであった。

   

   ヴラド・ツェペシュ

 さて、ヴラド・ドラクルに棄てられた次男はどうなったのか? 彼はオスマン帝国に忠誠を誓い、父の死後の48年にオスマン軍の支援を受けてワラキアに戻ったが、わずか2ヵ月でハンガリーの軍勢に追い出されてしまった。彼はモルドヴァ(ここもオスマン帝国に服属している)に亡命、ワラキア公にはハンガリーの息のかかったヴラディスラヴ2世なる人物が即位した。

 この、ヴラド・ドラクルの次男というのが『吸血鬼ドラキュラ』のモデルとなったヴラド・シェペシュである。51年、ヴラドの亡命しているモルドヴァの領主ボグダン公が暗殺され、国中が蜂の巣をつついた様な騒ぎとなった。ヴラドは思いきってハンガリーを頼ることにした。自分をワラキアから追い出したのはハンガリー軍であり、現在のワラキア公もハンガリー王の家来のような人物であるが、あえて死中に活を求めたのである。以後しばらく、ヴラドはハンガリーの武将として各地に転戦した。

 56年、それまでハンガリー側についていたワラキア公ヴラディスラヴ2世がオスマン側に寝返るとの噂が流れた。当時はオスマン帝国の全盛期であり、3年前の1453年にはコンスタンティノープルを攻め落としてビザンティン帝国(東ローマ帝国)に最後のとどめを刺していた。弱小なワラキア公がオスマン帝国になびくのも仕方のない話であったが、ハンガリーはヴラディスラヴを殺し、後任のワラキア公としてヴラドを擁立した。48年にたった2ヵ月の在位で国を逐われて以来苦節8年、ようやくヴラドのワラキア公位が確立した。

   

   串刺し公

 この数十年、公位がころころと替わったワラキアでは、国内の地主貴族の独立性が著しく高まり、公をないがしろにする空気が強かった。そこでヴラドは地主貴族500人を集め、これまでワラキアには何人の支配者がいたかと質問した。ある者は12人と答え、ある者は20人と答えたが、ヴラドは「(こんなに頻繁に支配者が替わるほど)ワラキアが弱体化したのはお前らのせいだ」と言って、500人全員を串刺しにした。「串刺し」はルーマニア語で「ツェペシュ」と呼び、「ヴラド・ツェペシュ」の名はここに由来するのである。犯罪者は微罪であっても死刑(串刺し・縛り首・釜茹で)とし、さらに浮浪者・貧者・病人・老人等を集めて「大いなる慈悲を与える」として焼き殺した。

 似たようなことは他の君主もやっていたというが、ヴラドには残虐なエピソードがたくさんある。ある時オスマン帝国から使者がやってきたが、彼はトルコ人のしきたりに従い、ヴラドの前でもターバンをつけたままにしていた。怒ったヴラドはそのターバンの上から釘を打ち込んでしまったという。

 そういう話はともかく、厳罰主義をとって治安を回復したヴラドは、これまで地主貴族によって組織されていた軍隊の他に一般農民を組織した公室直属軍を整備したり、やはり地主貴族が集まっていた公室評議会の権限を弱める等の、つまり公の権力を強化する改革を進めた。57年には、昔世話になっていたモルドヴァ公ボグダンの子シュテファンがモルドヴァ公になるのを助けることもした。

 1460年、前のワラキア公だったヴラディスラヴ2世の子ダン3世が反乱をおこしたがあっさり鎮圧され、ダンは自分で自分の死刑宣言文を読まされ自分で自分の墓穴を掘らされ首を刎ねられた。

 61年、南からオスマン軍が攻めてきた。最初はワラキア軍が優勢で、ドナウ河を渡ってオスマン領に攻め込んだりしたが、翌年5月に本気になったオスマン軍十数万が雪崩れ込んでくるととても太刀打ち出来ず、やむなく女子供を山に退避させてゲリラ戦を挑むことにした。オスマン軍の進撃路に串刺しにした捕虜を並べてその度胆を抜き、時には夜襲をかけてオスマン軍の本営を大混乱に陥れたりした。結局、オスマン軍は退却した。

   

   虜囚と復位と

 ヴラドはさらにオスマン軍を追撃しようとしたが、戦いに疲れた地主貴族たちの反対で果たせなかった。ともあれイスラム教徒の大軍を撃退したヴラドの名声は全ヨーロッパに鳴り響いた、と、いう間もなく、ヴラドの弟ラドゥがオスマン帝国と手を結んで反乱をおこした。前回の戦ではオスマン帝国はワラキアの完全服属を望んでいたが今回は貢納金だけに要求を絞り、おかげでラドゥは多くの地主貴族の支持を獲得した。前回の戦いで活躍した農民軍は、オスマン軍に破壊された家や畑を修復するために故郷に帰ってしまっていた。

 兄弟対決に敗れたヴラドはハンガリーに亡命した。しかし、何故か、ハンガリー王コルヴィヌスはヴラドを逮捕した。ヴラドは以後12年もの長きに渡ってヴィシェグラード宮に軟禁されることになった。その間、ラドゥの方はオスマン帝国とハンガリー両方に腰を低くする無難な外交を続けた。

 軟禁されたといっても、ヴラドの待遇はかなりよかったらしい。ハンガリー王の妹と仲良くなり、ハンガリー王本人の警戒も次第に弛んできた。他に、昔ヴラドに助けてもらったモルドヴァのシュテファン公の粘り強い取りなしもあり、74年にはなんとか釈放を勝ち取ることが出来た。その後しばらくはハンガリーの武将としてオスマン帝国と戦ったりしていたが、翌75年になってようやくハンガリーの援軍とともにワラキアに帰還した。ヴラドがワラキア公になったのはこれで3度目である。

 しかしそれも、ハンガリー軍が帰国した時点で終ってしまった。たちまち盛りかえしたオスマン軍がワラキアに進撃し、態勢の整わないワラキア軍を撃破、ヴラドも乱戦の中で死んでしまうのであった。

 以後、ワラキアはオスマン帝国の属国となった。隣のモルドヴァ公国も1538年にはオスマン帝国の属国となった。この両国が「ルーマニア」として独立を回復するのは1876年のことである。トランシルヴァニアはその間ずっとハンガリーの一部であり続けた。ハンガリーは16世紀にやはりオスマン帝国に征服されるが、1699年の「カルロヴィッツ条約」によってオーストリア領となり、1867年にオーストリア帝国内のハンガリー人に自治が認められて「オーストリア・ハンガリー帝国」が成立した際にもトランシルヴァニアはハンガリーの一地方であった。トランシルヴァニアが完全にルーマニアの一部になるのは第一次世界大戦の後である。

 ドラキュラの物語を文章にまとめた最初のものは、本人が存命中の1462年頃にドイツ語で書かれたものであるという。この物語ではドラキュラの残虐性がしきりに強調され、釜茹でにする、生皮を剥ぐ、串刺しにされた人の列が森のように林立している、さらには子供を殺してその肉を母親に食わせる、とかいうドラキュラ伝説のもとネタになっている。当時ヴラドを軟禁していたハンガリーが彼の悪行を強調するためにバラまいたともいわれるが、これは全くの創作ではなく、同時期に書かれたロシア語の物語、諸国の外交官が母国に送った報告書等にも相当に残酷なドラキュラ像が描かれていることから、ある程度は下書きになる事実が存在したと考えられている(註1)

 註1 マクナリー&フロレスク著『ドラキュラ伝説』より。この本には「ドイツ語の物語」「ロシア語の物語」も収録されているので興味のある方はどうぞ。

 しかしながら16世紀になると、ヴラドは押し寄せるオスマン帝国の大軍を寡勢よく迎え撃った名将軍として再評価されるようになる。このスタンスは西欧にも及んだと考えられ、18世紀になっても軍事史専門家フォラアルもヴラドを高く評価しているというが、しかし19世紀になるとまた評価が逆転する。ヨハン・クリスティアン・エンゲルなる人物が『ロシア語の物語』を「再発見」したことをきっかけに「暴君ヴラド」のイメージがヨーロッパを席巻し、ルーマニア人学者の反論も空しく『吸血鬼ドラキュラ』の誕生へとつながるのである。

 最後に、ヴラド・ツェペシュの別名である「ドラキュラ」という名の由来だが、父であるヴラド・ドラクルの息子という意味で「ドラキュラ」もしくは「ドラクレア」と呼ばれたとの説、父親の名前をそのまま受け継いだのが誤って伝えられたとの説等が考えられている。ちなみに、ヴラド・ツェペシュが吸血鬼だったという話はどこにもない。

                           

おわり

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